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ENTASに至るまで/私たちは、駒じゃない①

01 1998年。数年前から、大田若草の上階で活動していた子どもの家(学童)が、近隣の学童と統合され2階が空いていた。そこで小柳と『2階の使用許可を取り付け、23区内南部地域にはない授産施設を設立してはどうか』と、共に考え始めていた。
それは以前から「高工賃の作業所を作ろう」という話で新しい作業所を設立しようとすると、必ず「障がい者の振り分けだ」という反対が起こる。それゆえ、活動内容が同じような作業所がどんどん設立されてきた。でもそれは、障がい者の振り分けではなく選ぶ権利を損ねていないのだろうか。途中から、作業内容に特色を出した作業所もできていたが、特色を出せばその特色に合わないと利用しづらい。床面積を広げることをきっかけに、現在の大田区内にはなく、あったらいい選択肢がもっとあったほうがいい。

しかし、1999年8月中旬突然、当時の大田区衛生部保健課の課長とX係長(当時)が、大田若草へやってきた。「この建物は、耐震工事が必要と判断されたので、2000年3月末までに出て欲しい。移転先は、行政が面倒をみるようなことではないので、自分たちで探すように」というのだ。「行政と大田若草は、一般的に言うと大家と店子の関係。契約がまだ1年半以上残っている時点(当時は、3年契約であった)で、いきなり出て行けというのはおかしな話。しかも、その移転後戻って来られるかの確約も移転費の話もなしに、返答が出来る訳がありません」と、答えた。すると課長が言った。「あなたたちは、大田区にとっては単なる駒です」………   (つづく)

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