大田若草作業所運営委員会は、ほとんどは家族で構成されそこに職員が加わり、初期にはアドバイザーとして保健師も参加していた。運営委員会の代表と会計は、ご家族が担っていた。T代表は、運営にはノータッチで、利用者と共に内職作業を行っていた。
そして会計の池崎吉次氏は、大変常識的で大きな視野をお持ちの方だった。「大田若草が、1987(昭和62)年に西蒲田4丁目のこの地(区の建物)に移転できたのは、既存の作業所や関係者の協力があってこそ。だから、大田若草は大田区内の作業所等に、出来る限り協力するように」と、まだ各作業所に普及していなかったコピー機の貸し出しや、広い施設を会議室として「他の作業所やA会・B会・C会」のような団体に、積極的に貸すことを職員に対し常におっしゃっていた。
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